《院長紹介》
副院長 渡辺 ひろみのプロフィール
昭和34年 長野県下伊那の母の実家で生まれました。
父は医師、母は教師の家庭で、その頃、父は自衛隊所属の医師だったため、幼少期は北海道、松本へなど、転勤による引越しが多く、弟は私が2才の時、北海道で生まれました。幼稚園から小学校1年生まで、母の実家で育ち、その頃、父は医科歯科大学の大学院生になって、東京にいたため、別々に暮らしていたのを覚えています。
母の実家は農家で、大きなブドウ園と田畑があり、小学校1年までは、野山に近くを流れる天竜川にと、暗くなるまで、虫をつかまえ、魚をとって、泥だらけになって遊ぶ毎日でした。
また、小学校には農繁休暇なるものがあり、稲刈りや草むしりなどを面白く手伝い、思いきり自然の中で育ちました。
小学校2年に上がる時、父のいる東京都府中市に引越し、私立の小学校に編入しました。
小学校時代は超おてんば。あぶないことは何でもやり、男の子にまじり、野球部所属、運動能力は男の子には負けませんでした。
はやりの少年マンガが大好きで、巨人の星、タイガーマスク、柔道一直線などにくるい、小学校3、4年までは、巨人軍の入団をめざし、ひそかに特訓をしていました。
そういった反面、父が医師であったため、家にはいつも医学雑誌、専門書があふれていたので、それらをひらいては、病状写真などをながめ、人体の神秘への興味が自然にわいてきておりました。
中学にすすんでからは、理数系の勉強の面白さにめざめ、地元の塾に毎日通いながら、医学部をめざし、高校の当時の都立の進学校に入学しました。
高校入学後は、なんとなく気がゆるみ、たいして勉強もせず遊んでいたため、高校1、2年の時の成績はサンタンたるものでした。
高校3年の夏くらいからは真剣に勉強しましたが、追いつかず、受験したい学部は全部不合格、ただ一つ合格した歯学部に入学しました。
その時は医学部をあきらめきれず、大学に席をおきながら、もう1回受験しようかとも思いましたが、生来怠け者のため、日々の生活に流され、歯学部に6年間在籍し、歯科医師となったわけです。大学時代に今の主人と知り合いました。
卒後は口腔外科へ在籍し、2年間勉強しました。その時は夜間当直あり、重度外傷あり、口腔癌患者あり、その他、めったにおめにかからない奇病ありで、とても勉強になりましたが、どうしても治すことができない、担当した舌癌の患者さんが、日に日におとろえ、死を迎えるまで見届けなければならなかったり、患者さんも、私のような新卒の医者には質問しやすかったり、泣き事を言いやすかったりするのでしょうか。「いつよくなるのですか」ときかれると、何と答えてよいのかわからず、自分も泣きだしたい気持ちで、とても辛かった経験もありました。
この時の経験は開業してからも、少なからず役に立っています。
その後、結婚し、口腔外科をしりぞき、開業したわけですが、開業当時、今から16年前ですが、その頃は私は歯科医師の仕事とは、虫歯の治療をすることしか考えておらず、来院する患者さんの虫歯を削ってはつめ、削ってはつめで、くり返す毎日でした。歯みがきの仕方を指導しても、上手にできず、治してもまた歯が悪くなるのは、患者さんの責任と考えていました。
開業して8-9年経ち、小さかった娘も学童期に入り、自分自身に余裕も生まれ、研修会への出席、診療レベルアップに対する意欲もわいてきた頃、私は東京医科歯科大学主催の内山先生のPMTC(プロフェッショナル・メカニカル・Teeth・Cleaning)セミナーに参加しました。
その時初めて、歯科医師の役割というものの根本にぶつかり、大変衝撃を受けました。歯科医師の役割とは、お口の健康を通して、患者さんに幸福な人生をもたらすことなのです。
虫歯を治すことはもちろんですが、「治療が終わった後はあなたの責任よ」と放り出すのではなく、患者さんと長くおつきあいし、健康な状態を保っていけるよう指導し、管理していくことがとっても大切なことであると思い知らされました。
現在は予防システムを導入して、日々の努力を忘れず、患者の気持ちになり、生きがいを感じて、毎日診療にとりくんでいます。
今では、歯科医師を選んで、本当によかったと思えます。
[院長 渡辺 章一朗のプロフィール]
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